たくさんのご連絡ありがとうございました!!!
5月13日(木)を持ちましてH22年度、第一期のリーダー募集を締め切らせていただきました。
第二期に関しましては、また後日情報公開をしていきたいと思います。
今年もたくさんの新しいリーダーがデビューします!!!!お楽しみに☆
(タケ)
新潟県南魚沼市で運営している自然体験村のブログです。キャンプ期間中はキャンプや子ども達の様子を写真中心にお伝えします。その他キャンプの募集なども行っていきます。 毎年夏休みに、小中学生を対象とした12泊、8泊、6泊、3泊、2泊の夏キャンプと冬に雪あそび、田植え・稲刈りなどのキャンプを開催しています。
携帯からはこちら→http:// bit.ly/ dy5nzZ
2023年度秋キャンプ参加者募集について
ツアー募集受付開始については下記のリンクをご覧ください。
2023秋のキャンプ場火あそびキャンプ
2023秋の稲刈り 親子キャンプ
2010年5月14日金曜日
2010年5月12日水曜日
2010年5月10日月曜日
塩沢牧之通りにオープン雁木屋(がんぎや)
南魚沼市には「牧之通り」といい
江戸時代の三国街道の塩沢宿を再現した通りがあります。

そこに宿場街らしいお店が並んだ、雁木屋(がんぎや)が新たにオープンしました!
お店の内容も塩沢宿にちなんだお店になっているようです。

お蕎麦屋さん

団子屋さん

特産品のお土産屋さん


カステラ屋さん


反物屋さん

牧之通りがにぎやかになりそうです。
トイレはこんな感じです。

男性が彦星 女性が織姫だそうです。
今日はオープンなので人力車もいました。

この人力車はお団子屋さんの社長の趣味のようです。
ひとまず今日だけですが近いうちに
牧之通りで常に走らせる計画のようです。
5月13日追記
牧之通りについてなかなかいい説明がないのですが
体験村事務局になっている
(財)山の暮らし再生機構の観光ガイドスペシャリストが
牧之通りについて、地元に人達から聞いた
ここだけの話をまとめましたので
ちょっとコピペします。
貴重な話ですよ・・・
------------------以下引用---------------------
平成14年の春、若者が会議で言った一言が街を大きく動かした。
「孫や子の時代に誇れる街を造ろう」反対する人はいなかった。
方向としては「塩沢雪国歴史街道」で雁木を付け雁木の似合う街にする。
コンセプトは「雪国の歴史と文化」
さぁ商店街が動き出した。雁木は個人の敷地を2メートル下げて個人が建設する。
協定運営委員会で人の家の外観に、ものを言う。
「こうしたい」と言うのを「そうしないで、こうしてくれ」と頼む。
するとまたお金がかかる…
「これだけ街づくりに協力しているのにまだ言うの?!」
一筋縄ではいかなかった…と当時を振り返る関係者。
こんな事を6年もくりかえして、ようやく工事も最終段階に来た。
男がハード面をやっているので、射干の会(商店街の女性グループ)が中心となって始めたソフト事業が、塩沢のまちぐるみの事業になってきた「ひな雪見かざり」や「塩沢つむぎ語り」などのイベントである。
そうするうちにバスを送り込むという旅行社やバス会社が出てきた。
様々なことから、様々な人が来て人と人が繋がる…大きな夢がまだまだだが、「子や孫に自慢できる街」が完成しつつある。
あとは、ソフト面の強化。
なぜ牧之通り?江戸時代の文人、「北越雪譜」の著者、鈴木牧之が塩沢の生まれなので牧之の名を頂き牧之通りと名付けられました。
塩沢らしさにこだわり雪国の歴史や文化を生かした統一感のある雁木のある街並み (雁木とは…「雁木造(づくり)」の略。
東北や信越などの積雪地方で、町家の軒先からひさしを長く張り出し、その下を通路として、積雪中でも人々が通行できるようにしたものです)
旧三国街道沿いの宿場町として栄えた塩沢宿がよみがえりました。
今では宿屋はありませんが豪商や造り酒屋そば屋に団子屋、両替商等、古き良き時代の建造や味を楽しむことができます。
また、塩沢はなんと言っても古くから栄えた織物の町。現在でも塩沢縮や塩沢お召、越後上布など、高級織物の産地として知られております。
中でも1200年前から織られている越後上布はユネスコの世界遺産に登録させました。塩沢牧之通りでは越後上布もご覧いただくことができます。
江戸時代の三国街道の塩沢宿を再現した通りがあります。
そこに宿場街らしいお店が並んだ、雁木屋(がんぎや)が新たにオープンしました!
お店の内容も塩沢宿にちなんだお店になっているようです。
お蕎麦屋さん
団子屋さん
特産品のお土産屋さん
カステラ屋さん
反物屋さん
牧之通りがにぎやかになりそうです。
トイレはこんな感じです。
男性が彦星 女性が織姫だそうです。
今日はオープンなので人力車もいました。
この人力車はお団子屋さんの社長の趣味のようです。
ひとまず今日だけですが近いうちに
牧之通りで常に走らせる計画のようです。
5月13日追記
牧之通りについてなかなかいい説明がないのですが
体験村事務局になっている
(財)山の暮らし再生機構の観光ガイドスペシャリストが
牧之通りについて、地元に人達から聞いた
ここだけの話をまとめましたので
ちょっとコピペします。
貴重な話ですよ・・・
------------------以下引用---------------------
平成14年の春、若者が会議で言った一言が街を大きく動かした。
「孫や子の時代に誇れる街を造ろう」反対する人はいなかった。
方向としては「塩沢雪国歴史街道」で雁木を付け雁木の似合う街にする。
コンセプトは「雪国の歴史と文化」
さぁ商店街が動き出した。雁木は個人の敷地を2メートル下げて個人が建設する。
協定運営委員会で人の家の外観に、ものを言う。
「こうしたい」と言うのを「そうしないで、こうしてくれ」と頼む。
するとまたお金がかかる…
「これだけ街づくりに協力しているのにまだ言うの?!」
一筋縄ではいかなかった…と当時を振り返る関係者。
こんな事を6年もくりかえして、ようやく工事も最終段階に来た。
男がハード面をやっているので、射干の会(商店街の女性グループ)が中心となって始めたソフト事業が、塩沢のまちぐるみの事業になってきた「ひな雪見かざり」や「塩沢つむぎ語り」などのイベントである。
そうするうちにバスを送り込むという旅行社やバス会社が出てきた。
様々なことから、様々な人が来て人と人が繋がる…大きな夢がまだまだだが、「子や孫に自慢できる街」が完成しつつある。
あとは、ソフト面の強化。
なぜ牧之通り?江戸時代の文人、「北越雪譜」の著者、鈴木牧之が塩沢の生まれなので牧之の名を頂き牧之通りと名付けられました。
塩沢らしさにこだわり雪国の歴史や文化を生かした統一感のある雁木のある街並み (雁木とは…「雁木造(づくり)」の略。
東北や信越などの積雪地方で、町家の軒先からひさしを長く張り出し、その下を通路として、積雪中でも人々が通行できるようにしたものです)
旧三国街道沿いの宿場町として栄えた塩沢宿がよみがえりました。
今では宿屋はありませんが豪商や造り酒屋そば屋に団子屋、両替商等、古き良き時代の建造や味を楽しむことができます。
また、塩沢はなんと言っても古くから栄えた織物の町。現在でも塩沢縮や塩沢お召、越後上布など、高級織物の産地として知られております。
中でも1200年前から織られている越後上布はユネスコの世界遺産に登録させました。塩沢牧之通りでは越後上布もご覧いただくことができます。
母の日
5月9日は母の日です☆
皆さんちゃんと日々の感謝しましたか!?
母の日にカーネーションというのはどうやって始まったのかちょっと気になったので調べて見ました。
どうやら母の日とカーネーションが結びつくキッカケは、20世紀初頭のアメリカで活躍した女性社会活動家のミセ ス・ジャービスがカーネーションが好きだったと言うことに由来しているようです。
ミセス・ジャービスの亡くなり、その追悼式で娘のアンナが参加者に白いカーネーションを渡していが、その後アンナの提案によ り、母が存命する人は赤いカーネーションを、母を亡くした人は白いカーネーションを自分の胸につけるようになり、これがいつの間にか慣習化していったそうです。
その後、いつしか母にカーネーションを贈るのが普通になってきた訳ですが、もともとカー ネーションは”母と子”や“母性愛”の象徴とされており、そのことも関係しているようです。
日本で母の日が普及し始めた当時のカーネーションは、ほとんどが造花だったようです。戦後、「全国未亡人団体協議会」などが中心に造花の赤・ 白のカーネーションを販売していたのですが、母親のいる子は赤、いない子は白と区別をつけることで幼心を傷つけてしまうのではという懸念や、義母に育てられた子への配慮などから、1960年より赤一色に統一されたんだそうです。
うーん、なかなか奥が深い・・・
普段何気なく行っている事も調べてみると知らなかった事がたくさんありますね!!!
体験村のキャンプでは親子で花を贈る機会はないですが、今年のキャンプでは長期を活かし、子ども達の期間中に自宅への連絡は電話ではなく手紙を用いようと検討中です。伝えたい事、キャンプ中にあった出来事などを手紙にして送ります。きっと送ったら返事が返って来るまでドキドキですね。
今は携帯も普及しているし、きっとまどろっこしく感じるのかもしれませんが、たまにもらう手書きのレターはなんとなくうれしいもの。 保護者の方には少々ご負担をお掛けすることになりそうですが、遠方で奮闘中のナイト達と是非そんなドキドキを味わって頂けたらと思います☆
(タケ)
ミセス・ジャービスの亡くなり、その追悼式で娘のアンナが参加者に白いカーネーションを渡していが、その後アンナの提案によ り、母が存命する人は赤いカーネーションを、母を亡くした人は白いカーネーションを自分の胸につけるようになり、これがいつの間にか慣習化していったそうです。
その後、いつしか母にカーネーションを贈るのが普通になってきた訳ですが、もともとカー ネーションは”母と子”や“母性愛”の象徴とされており、そのことも関係しているようです。
日本で母の日が普及し始めた当時のカーネーションは、ほとんどが造花だったようです。戦後、「全国未亡人団体協議会」などが中心に造花の赤・ 白のカーネーションを販売していたのですが、母親のいる子は赤、いない子は白と区別をつけることで幼心を傷つけてしまうのではという懸念や、義母に育てられた子への配慮などから、1960年より赤一色に統一されたんだそうです。
うーん、なかなか奥が深い・・・
普段何気なく行っている事も調べてみると知らなかった事がたくさんありますね!!!
体験村のキャンプでは親子で花を贈る機会はないですが、今年のキャンプでは長期を活かし、子ども達の期間中に自宅への連絡は電話ではなく手紙を用いようと検討中です。伝えたい事、キャンプ中にあった出来事などを手紙にして送ります。きっと送ったら返事が返って来るまでドキドキですね。
今は携帯も普及しているし、きっとまどろっこしく感じるのかもしれませんが、たまにもらう手書きのレターはなんとなくうれしいもの。 保護者の方には少々ご負担をお掛けすることになりそうですが、遠方で奮闘中のナイト達と是非そんなドキドキを味わって頂けたらと思います☆
(タケ)
登録:
投稿 (Atom)